金剛峯寺の御朱印


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住    所 伊都郡高野町高野山132
 宗    派 高野山真言宗
 山    号 高野山
 寺    格 総本山
 御 本 尊 阿しゅく如来
 正式名称  高野山 真言宗 総本山 金剛峯寺
 開    基 弘法大師(空海)
 札 所 等 真言宗十八本山 第18番
         神仏霊場巡拝の道 第13番(和歌山13番)
         西国三十三所 特別札所

 弘仁7年(816年)嵯峨天皇より高野山を賜り寺を創建する。空海他界後、弟子の真然(実の甥)が約20年かけ根本大塔などの伽藍を整備した。承和2年(835年)に定額寺に列し官寺に准ずる寺格を得るが、正暦5年(994年)落雷火災によりほとんど焼失し僧は山を降り衰亡の時期を迎える。
 定着によって長和5年(1016年)頃から再興される。藤原道長・白河上皇・鳥羽上皇など相次ぎ参詣し、現世の浄土として信仰を集めるようになり栄える。
 北条政子が源頼朝の為に金剛三昧院を建設などもあった。
 織田信長とも対立し、天正9年(1581年)荒木村重謀反で一部家臣が高野山に逃げ込み、信長からの引き渡し使者に対し拒み殺害をする。信長は日本各地の高野山僧を数百名殺害し、高野山攻めが行われたが本能寺の変で難を逃れる。
 豊臣秀吉は寺領返還を迫るも、武士出身僧の木食応其が仲介し服従を誓ったことで存続する事が出来た。
 応其は秀吉に島津氏との和睦交渉など協力している。秀吉は又亡き母の菩提寺として青厳寺(現在の金剛峯寺の前身)を建てた。
 江戸時代は徳川家が大徳院を菩提所・宿坊に定め、諸大名・有力者が子院(宿坊)霊屋などを建立した。
 昭和21年(1946年)から高野山真言宗を名乗る。

 金剛峯寺HP

 オリジナル御朱印帳が数種類在ります。


カバー 両界曼荼羅の説明

正門 主殿1 主殿2
下門 蟠龍庭(ばんりゅうてい) 蟠龍庭2
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